ちょうど真ん中あたりに置かれた、冷やしトマトの小鉢。

先日、よく行く定食屋さんでの話。


「夏野菜のコロッケ定食」(コロッケに塩をつけて食べるのですが、これが旨い)というのを注文し、できあがるまで「en-taxi」を読んでいたのです。長方形の大テーブルの末席に座ったので、当然、周りには他のお客さんがいます。ちょうど目の前に五十代半ばくらいのご夫婦がいらして、この方たちはぼくのように「○○定食」の類ではなく、ビールや焼酎などを飲みながら、アテとして焼き魚、ポテトサラダ、おひたし、など、様々な小鉢を食べていました。


さて、しばらく時が経過して、ぼくの「夏野菜のコロッケ定食」が到着。ところが、向かいの夫婦が追加注文した小鉢も一緒に盆に乗せて持ってきたので、いささか混乱することになりました。


コロッケ、ご飯、味噌汁、これは当然、ぼくのでありましょう。それ以外に、小鉢をこう、2つ3つ、パパッとご夫婦とぼくの中間くらい、境界線のあたりに店員さんが置いたのです。その際、「こちら、△△になります」と店員さんがおっしゃったのだけれど、声が小さくて聞き取れず、なんかちょっと気がかりな感じで食事が始まりました。


ご夫婦は、飲んでいる人のわりにはけっこうすばやく箸を付け、小鉢を片付けていきます。しかし見ていると、冷やしトマトを2つほどブツ切りにした小鉢には手をつけない。あれ? じゃ、これ、ぼくの定食に付いてきたのかな? と、当然、思いますよね? しかしながら、自分は「夏野菜のコロッケ定食」をこれまで少なくとも7回は食しているのであって、トマトが付いてきたことは一度も無い。夏だから、サッパリしたものに変えたのかな? とも思ったのですが、もしうっかり手をつけてしまい、「あっ、最後に食おうと思ってたのになんだアンタ、人の小鉢に」てなことになったらたまりません。


とはいえ、わざわざ店員さんを呼び出し、このトマトって誰のですか? などと聞くのは愚の骨頂です。仕方なくそのまましばらく放置したまま食事を続けていると、件のご夫婦は、けっきょくトマトには手をつけずに、サッと席を立ち、会計を済ませて出て行きました。


じゃあやっぱりこれ、オレのだね。


そう思い直してホッとして、一つ口に放り込んで周りを見ると、あれ? どのお客さんの所にも、トマトの小鉢が置いてあるじゃん。



疑問その①:なんで自分はもっと早く、周囲を観察してみようと思わなかったのか。


で、ハタとまだ気付いたわけです。「あっ。いつも付いてくる切干大根の小鉢がねえぞ」。


そう。夏だから、定食の小鉢が切干大根からトマトに変わったという、ただそれだけのことだったんですね。


疑問その②:なぜ、いつもより小鉢が1つ少ないから、このトマトがそれに該当するのだろうな、というカンタンな類推が働かなかったのか?




えー、ほとんどの方はこのどうでもいい出来事のどうでもいい文章を、すでに読むのをやめてしまっていると思うのですが(笑)、言いたいことは、人間の思考と視覚、記憶ってのは、この程度には迂闊でボンヤリしたものなんじゃないか、ってことです。


でも、やっぱりオレだけかな、こんなレベル低い出来事が心に留まるのって(笑)。そして、こういうことを書くことが、「書く」ということの本来の仕事でもあると思うのです。




なんか、こじつけっぽい(笑)。けど、書いておきたかったのでした。




昨日また、Ustreamに出たので、おヒマでしたら、ぜひに。
ぼくは36分50秒くらいから。前半もとてもイイです。特に瀬戸さんがステキ。
http://ustre.am/:17cUa

奥田民生の「スカイウォーカー」(名曲!)ライヴバージョン。この時、広島市民球場にいたかったなー。広島の人がうらやましい、時々、球場の外も映すカメラがとってもいいです。

それじゃ、また。