「夕方の三十分」を読む。

待つことは…… と書いて、形容詞が見つからない。つらい、長い、しんどい、そのどれでもあるようでどれでもないような、たのしさもむろん、しかしいちばん近いのは、たぶん惧れ、をめぐるものであり、しかしその惧れの持続については身体の知恵によって見事に弛緩が導入されているから(そうでなければ持たない)、結果、自分でもただぼんやり待ちくたびれているようにしか見えない。


 夕刻を迎える度、このまま今日も日付が更新されるかな? と思うのは、投げられた硬貨の表が残念、裏が安堵、というのはフォーマルな態度で、インフォーマルにはむしろ表が安堵、裏が残念かもしれず、分離不可能なそれらの揺れを残したまま、いつしか日が暮れていく。


 夕景の心細さ、寄る辺なさの中にある父と子、といえば、黒田三郎の有名なあの詩である。




夕方の三十分

コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウイスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリのご機嫌とりまでいっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮らしたので小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
「ホンヨンデェ オトーチャマ」「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼きをかえそうと 一心不乱のところに
あわててユリが駈けこんでくる
「オッシッコデルノー オトーチャマ」
だんだん僕は不機嫌になってくる
化学調味料をひとさじ  フライパンをひとゆすり
ウイスキーをがぶりとひと口  だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨォ オトー」「ハヤクー」
かんしゃくもちのおやじが怒鳴る 「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす 「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく 小さなユリが泣く 大きな声で泣く

それから やがて しずかで美しい時間が やってくる 
おやじは素直でやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向かい合ってふたり座る     



 1960年に刊行された詩集『小さなユリと』の中で、最も人口に膾炙した詩だろう。一読すぐにわかるのは妻=母の不在で、「半日他人の家で暮らしたので」は、勤務中にユリを預かってもらっていた、ということだと推測される。自分の家に帰って来ても食卓には父娘しかいない。実際、この時期、黒田三郎の妻・光子さんは結核のため療養中で(黒田三郎自身も長年結核に苦しんだ人だった)、結核となると面会もままならない状況だ。
 しかし、その不在は前景化・主題化することなく、説明も要することなく、舞台背景として静かに読者に了解される。今から55年前の詩集であり、男が台所に立つ機会が現在に比べてどうだったかはたやすく類推されるから、そのことも無理のない舞台の設定に貢献する。


 今、当該本が手許にないので確認できないが、堀江敏幸さんは『正弦曲線』の中でこの詩に触れ、「化学調味料」の箇所に着目していたはずだ。おそらく味の素のことだろうとこれまた容易に推測できて、化学調味料がいつしか「うまみ調味料」なる焦点の合わない代物へと名称を変更されていることが書かれていた。「社会全体に見えないあぶくが湧き出ていた頃から」(←ネットからの孫引きなので後日要確認)というのが堀江さんの認識で、つまりはバブル期ということだろう。

 
 そして私がこの詩を読んで感じた疑問(作品の質をめぐるものではない、作品は文句なくすばらしい)は、さてここで「オトーチャマ」は何を作っているか? ということだ。「コンロから御飯をおろす」とあるから火にかけていたわけで、そのあと卵、ネギとあり、チャーハンかな? と考える。「卵を割ってかきまぜる」は、「御飯」とはまた別の器に、だろうか。わからなくなるのは、「卵焼きをかえそうと」によってである。ここで「卵焼き」と言い切っている。チャーハンに対するおかずが卵焼き? それは、組み合わせとして無いように思える。では、この「卵焼き」は、チャーハンに入れるためのものか? しかし、チャーハンにまぶすためのあれを「卵焼き」と呼ぶだろうか? もう1つわからないのは、「化学調味料をひとさじ  フライパンをひとゆすり」のタイミング。あ、これは、火を通した卵をコンロから降ろした御飯と合わせ、もう一度火にかけて仕上げをする、という意味か。


 詩を構成する一行一行が時系列で並ぶ必要はないし、詩はレシピではないのだから、むろん、整合性を欠いていてもかまわない。それに私は料理オンチなので、「えっ? ぜんぜん不思議じゃないよ」と言われればそれまでかもしれない。要するに、勝手に誤読している確率が極めて高い。しかし、こんなことを考えながらこの詩を三読、四読することがなんとも楽しいのだ。


 小さなユリは、徹底してカタカナの圏内に属している。すべてユリの言葉はカタカナで詩の中を縦横に走り回り、オトーチャマにコツンコツンとぶつかる。なにしろ、百合でも由里、由利、ゆり、でもなくユリである。詩集のタイトルが『小さなユリ』ではなく『小さなユリと』であることも見逃したくない。「と」一文字によって一挙に、小さいながらも安定した小宇宙から不安定な世界に押し出される。不安な世界の中の防波堤は「一畳に足りない台所」だ。まるで世界の邪気を追い払うかのように、父娘のけたたましい攻防を経ることによってのみ、ようやくストンと平安がやってくる。ラスト四行の前の一呼吸、この一行アキがなんとも尊い。この空白の一行のあいだにユリは鎮まり、「オトーチャマ」の不機嫌の火も消え、さあ、夕食ができた。


 「半日他人の家で暮らしたので小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う」の一行、「いっぺんにいろんなことを言う」がなんともいえず、すばらしく切ない。


 小さなユリの存在と時間が、爆発している。こんな時、どうしたらいいんだろうね、「オトーチャマ」としては……。