誕生日が待ち遠しい!(どころではない)

7ヶ月半ぶり! にブログ更新します。長いです。
どうせまたすぐ途切れる、と思われるかもしれませんが、可能な限り週1以上のペースで続けたいと思います。



 10月ともなると、ずいぶん日が短くなったことを実感する時間がいたるところにある。その日もそうだった。到着した時刻にはすでに長い列が形成され、間違いないとは思ったものの、「ここ、最後尾ですか?」と確認してから並んだ。知り合い同士で軽口を叩いたり、何この列? といぶかしく横目に見ながら帰路に着く生徒がいたり、それでも基本、所在なげにスマートフォンの画面を見つめるか、さもなくば本を開くか、そうして1人でいる人が多いのはさすがに「文化系」のイベントというべきか。さほど待たされている実感はないものの、気がつくと本の文字を読むには暗くなりすぎていて、入り口のほうに向けて逆L字型に、なんだか海ヘビのように揺らめいて見える列は、顔の連続というより、もはやシルエットになっていた。


 2014年10月10日。東京・飯田橋のアンスティチュ・フランセの、フランス的というよりはるかに日本的に思える中庭に並んだ人々は、たぶん、映画より「その人」を見に来た人が多かっただろう。翌11日からスタートする「没後30年 フランソワ・トリュフォー映画祭」のために来日するジャン=ピエール・レオー氏が、映画祭より1日早く、舞台挨拶のために登壇する。きょう、ここで上映されるのはトリュフォー作品ではなく、フィリップ・ガレルの『愛の誕生』だ。明日が初日のはず、というマスイメージを裏切るような、しかし特別シークレットというわけでもなく誰でもアクセスできるように情報が放出されているこの日の上映と登壇は、だがしかし「がんばって2時間前には並ぼう」では、ぜんぜん甘かった。


 会場で会ったOさんからは「今来たの? 遅いよ!」と言われ、返す言葉もないのだけど、ジャン=ピエール・レオーを見るためなら、と、長時間の待機を厭わない人に対して「2時間前」はいかにも付け焼刃な思惑であり、腰が引けたスウィングで3塁打くらい狙う感じだったかもしれない。けれども、どうやら最低でも4時間前には行ってないと、みたいな情報がまことしやかに流れていたら、きっと行くのを止めただろうから、結果、これで良かったのだ。
 立ち見でもいい。遠くにレオー氏の顔を拝むだけでよい。この日の、この会場の空気にさわるだけでもいい。そう思いもしたものの、厄介なのは事が自分ひとりの問題ではない、ということである。仕事のためにギリギリにしか来られない妻の分のチケットも買い求める必要があり(前売券はなしで、とにかく並ぶしかなかった)、そのことが心配だった。


 と、前のほうからザワザワと不調和な伝言ゲームのように言葉がこぼれてきて、「チケットは1人1枚」とのこと。それを聞いて最初に思ったのは「げっ!」ではなく「あ、そうだよね」だった。だいたい100席くらいしかないのだし、苦労して並んでいるのに、1人で何枚も買われてはたまらない。そりゃそうだよ、賢明な判断ですよ。支持します。それはつまり、買ったらもう1度並び直さねば、ということ以上に2枚は絶対にムリ、という端的な事実の確認でもあり、さあ、こうなったらいっそ1枚も買えないほうがいいいのか。いや、そうじゃない、やはり買えたほうがいいのであって、ではその1枚は誰が使用するか。
 埒もないことを考えていると、「申し訳ありません、チケットはここまでです」と、女性の凛とした声が響き渡り、彼女が腕で引いたエアライン(見えない境界線)の内側3人目に自分がいた。買えなかった人はとてもがっかりしただろうし、あいまいさを残さない裁き方も正解だし、こちらもこういう時はモヤモヤ考えないでさっさと会計を済ませて場を離れるに限る。さあこれからどうするか。


 結果的に迷うことなく判断できたのは、アンスティチュ・フランセ側の計らいで、入場できなかった人のために、ロビーにモニターを置いて、舞台挨拶の部分だけ見せてもらえることになったからだった。階段を上がった上は劇場、下がロビーで、どうも下のほうに、より祝祭感があった、と思う。建物と建物のあいだの通路をクルマが通り抜けるたび、そこにレオー氏が乗っているかも? という期待が集団的にヘンな熱気として蔓延し、落ち着かないことこのうえない。その集団の中に切れ端のように漂っていると、自分が何をしたくてそもそもここに来たのか、よくわからなくなってくる。
 『愛の誕生』は以前、観たことがあるのでチケットは妻に譲ることにし、自分はロビー組のままでいることに決める。モニターの前に三重四重に列ができ、舞台挨拶がスタート。『愛の誕生』という映画のこと、フィリップ・ガレルという映画作家のこと、初来日のことなどを話しつつ、今日は基本的にトリュフォーアントワーヌ・ドワネルの話はしないんだ、と決めているかのような、そしてちょっと行儀の悪い(?)膝から下を司会者のほうに向けた座り方が印象的だった。モニターごしに見ると、なんだか黒ずんだジャン=ピエール・レオーが見える。『コントラクト・キラー』の感じにちょっと近いかな。


 10分ほどで舞台挨拶が終わり、映画が始まっても、立ち去る人はあまりいない。何かが起きるのをみんな、待っているのだ。例えばその階段を、レオー氏が、「やあ、外にこんなにいたの?」という感じで降りて来るところとか。で、そんな願いはあっさり実現する。
 「皆さんきょうは、ジャン=ピエール・レオーさんに会いに来られたんですよね? 会場に入ることができなかった皆さんのために、レオーさんがサインをする、とおっしゃっています。お疲れなので、少しだけ。15名か、20名くらい、ではどうぞ」。
 ふだんボーッとしている体が、よくあんなに俊敏に動いたと思う。(たぶん)10番目くらいにチャッカリ並んでいた。びっくりしたのは、みんなDVDとか本(トリュフォー関連の本)とかを持参していて、それを急いで取り出して準備していたことだ。この時はほんとに「げっ」と思った。なるほど「会いに来て」るよこれはほんとに。オレはそうじゃないな、「見に」来たんだ、そこにいて、生きて動いてしゃべるのを「目撃」しにきたのです。だからカバンには無印良品の文庫サイズの手帳しかなくて、あー、白いページがまだいっぱいあって良かった。


 四角い白の中の、上のほうに、小さめに、レオーさんは Léaud とだけ書いてくれた。握手した手はやわらかく、少し戸惑い気味の笑顔はこなれた笑みよりずっと感じが良くて、こっちも「Merci」くらい知ってる。いや、ほんとうは「Merci beaucoup」というべきだったんだね、やっぱり知らない。きょうはなんだか、おもいがけず、ちょっとすごい日だ。
 サインは本当に20人くらいで打ち切られ、この時はさすがに「えーっ!」という声が挙がった(しかしそれは抗議ではなく落胆の声だ。どちらも同じ、と言ってはいけない。そこを見極めるのが社会だと思う)。レオー氏にも、来場者にも配慮しなければならないスタッフの気苦労がしのばれる。

 
 2014年10月10日といえば、東京オリンピックの開会式からちょうど50年目の日で、誰かそんな話を、レオー氏にしているかな、してないだろうな、と思う。まあ興味もないだろうし。そして1964年は、歌の大ヒットを受け、『こんにちは赤ちゃん』という映画がそれぞれ日活と東宝で2本、公開された(まったく別のストーリー)年でもあり、そして今や自分はトリュフォーが亡くなった時と同じ年齢になってしまった、という話になるともはや自分以外のすべての人にとってどうでもいい話になる。


 52年間に25本の映画を遺した人がいるというのに、こっちは今から「愛の誕生」である。遅い。とんでもなく。遅すぎる。52歳で。しかしそれが事実だ。


 目前である。しかも、当然ながら産むのは自分ではなく、これはまあなんという間の抜けた、そして厳粛な話だろう。


 誕生日が待ち遠しい! どころではない。