6月は野ばらの月
かねてから、そこらじゅういちめんのバラ、という風景の中に身をおいてみたいものだと思っています。花を見て「あ、○○だ」とすぐに名前を言える種類というか数というか、それは人よりずっと少ないはずですが、それでも「いいなあ」と感じることはよくあります。
今ならあじさい、ですかね。ぼくの家の近くには「あじさい」という名前の喫茶店があって、ときどき、お昼ご飯を食べに行きます。
ばら、それから、すみれ。この2つはもう、無条件で良きもの、と思っています。日本は世界的にみてもすみれの種類がものすごく多い国として知られていて、旅先ですみれの群生とか見ると、だいぶテンションが上がります。
で、ばらなんですが、これ、今頃が季節? もっと後? 一年中あるっちゃ、ありますよね。(ちょっとネットで見てみる) 種類によって違うけど、いちおう5月〜6月が旬みたいですね。
大好きな菅原克己の詩集に『夏の話』(土曜美術社)というのがあって、その中に、一月から十二月まで、月ごとに振り分けられた十二篇の詩があるんですけど、六月の詩が「野バラ」なんです。そんなに長くないので全部引用してみましょう。
いつの間にか
垣根のところに
野バラの花が咲いた。
風が吹くと
あおい繁みのなかで
なにやらチラチラささやきあっている。
これといって特別のこともなく、
ただ咲くことだけで
六月の記憶をのこしていく野バラ。
裏の畑に、平八つぁんの
麦わら帽子が一つ動いて、
あとは、梅雨の合い間の
まぶしい夏の光だ。
イイでしょう、これ。大好きな詩集の中でもこれがいちばん好きな詩で、だから相当好き、ってことになります。
なんの作為もなく、すんなり書いているようで、気になる箇所はいろいろあります。「野バラが咲いた」じゃなくて「野バラの花が咲いた」なんですね。
「特別なこともなく」ではなく、「特別のこともなく」もポイントな気がします。「特別な」より「特別の」のほうが情景が静かです。あと「麦わら帽子」をわざわざ「一つ動いて」というところ。平八つぁんはひとりなのだから麦わら帽子もひとつだろうに、それを一つ動いて、と書くのがおもしろいです。
いやはや。こんな詩が書けたらいうことないですよ。ほんとに。「あおい繁みのなかで/なにやらチラチラささやきあっている」。こういうのが書けそうで書けないんだなあ。
ばらというのは、よほど丹精するか、あるいはプロが運営しているバラ園みたいなところに行かないと、たくさん見ることはできないのでしょうね。不思議なもので、「ばら」より「野ばら」のほうが、ぼくには数倍、グッと来ます。「ぶどうジュース」より「山ぶどうのジュース」のほうがおいしそうに聞こえるという、あの感じ? 違うか。冒頭に「そこらじゅういちめんのバラ」なんて書きましたが、思いがけない場所に野ばらがぽつんとあったらやっぱりそっちのほうが感激するでしょうね。ばらって、一輪だけぽん、とある、なんて咲き方はしないのかしらん。そもそも、そういうことも知りません。
奥田民生の「野ばら」も可憐な名曲で、この曲の詩のキモは、「野ばら」が「机」にあるという一点にかかっていると思います。