カントリーガール

もうブログ止めたんじゃないか? ってぐらい久々(21日ぶり)の更新です。


昨日(26日)は、渋谷のアップリンクに、『カントリーガール』という映画を観に行って来ました。いろいろ友人・知人にもお誘いのメールを送ったのですが「一緒に行こうよ」ということで、岡崎武志さんと行って来ました。


どういう映画かというと…… いや、これはもう、岡崎さんが過不足なく、見事に、しかもわりと長く紹介されているので、そちらを読んでいただいた方が話が早いです。http://d.hatena.ne.jp/okatake/



長編第一作とはいえ、ほとんど自主映画みたいな作品だし、惨憺たる出来、ということだってありえたので、岡崎さんがかなり気に入られたことには、まずホッとしています。


で、ぼくの感想を書かねばなりませんが、まず、いい意味で「それっぽさ」の無い映画と思いました。完全に青春映画ですが、説明を排した日本映画を撮ろうと思った時、多くの場合、画面の中に「溜め」のような時間があらわれます。それは例えば、ある人物が立ち去った後、数秒間、カメラが誰もいない空間を映し続ける、といったことでできる「溜め」の時間です。その「溜め」によって何か言葉では表現できない、映像のみによって可能な「何か」がそこにあるかのような「それっぽさ」が生まれ、それは効果を上げることも、意味を持っている場合もあるのですけれど、意外と自堕落な「それっぽさ」に留まってしまって、それはとってもよくなことだと僕なんかは思っていましたが、『カントリーガール』には、「それっぽさ」を拒絶する清潔さがありました。


だからこの映画、案外、説明的なんです。京都は外国人が多くやってくるところ。その外国人をカモにする高校生たちの倦怠。そこにかぶる恋愛。鬱屈。ある意味、ステレオタイプのカードが揃います。


これは渡辺あやさんの脚本の功績ですが、ポイントは、舞妓ではなく、舞妓の見習いである、という点だと思います。京都を描くのに舞妓を持ってくるという極端な通俗性から出発し、しかし舞妓は舞妓でも見習いである、という「ズレ」が導入され、しかも山口県の出身である、つまりカントリーガールである、という「ひねり」が加味されて、物語がグラリと起動します。


非常にうまく川を使っていますが、それが鴨川ではないところもポイントだと思います。そして、SuiseiNoboAzの音楽(かっこいい!)を使う場面に、観光客であふれかえる清水寺など、超有名観光スポットを配し、しかも同じ映像を何度もインサートしているところは確信犯で、「おもしろいこと、やってる」と思いました。



中景の画がとてもきれいなのも美徳の一つです。「カントリーガール」を待っている「彼」が、川沿いの道で待っている、その、茶色い板塀の前にいる寄る辺ない、しかし緊張感もある画は、引きすぎず、寄りすぎず、非常にいい距離を保っています。だいたい、映画を観る時、妙に顔のアップが多い作品は駄作だと思って間違いありません(妙に、じゃなくて、異常に、多い映画はまた別です)。


この「中景」は、公式サイトのトレーラーで観ることができます。
http://www.countrygirl-movie.com/trailer.html


東京は渋谷・ユーロスペースで4月公開。京都が先行で3月19日〜です。そうか、京都でまたこの映画、観たいなあ。


明日は(明日も書きます!)、待望にして衝撃の夏葉社の新刊『さよならのあとで』について書きます。